一章[祇 園 祭][一章] 昇はシャワーを浴びてさっぱりしたところで冷蔵庫から缶ビールを出して栓を抜いた。 風呂上りの体と耳には栓を抜く時のあのプシュッという音と一口目の味がこたえられない。 まして梅雨時は尚更である。 それに今夜は妻の直美が腕を骨折した母親の手伝いで実家へ帰っている。 息子達も一緒に行った。 昇が時計を見ると午後の9時を少し過ぎている。 テレビは2時間ドラマの時間帯である。 誰もいない家の中は不気味な程静かだ。 時間の流れ方がいつもと違って遅い。 昇はビールを片手に新聞を広げた。 トレンディードラマという若者向けの番組が目にとまった。 ドラマはすでに始まっていた。 教師の昇は少しでも生徒達と会話ができるようにと努めて若者向けの番組を観るように している。 観始めてすぐ電話のベルがなった。 直美かなと思って立ち上がり昇は「どうしたのだろう。今夜は泊まるから、と言っていたのに」と思った。 「もしもし、田中です」と答えたが返事がない。 昇は生徒の誰かがかけてきたのかなと思った。 もう一度「もしもし」と言ってみた。 すると「もしもし、昇さんはお帰りでしょうか」と女の声が返ってきた。 「私ですが」と答えると一瞬ためらった様子があって「ノボルさん、ワタシ」という答えがあった。 昇は「誰かな」ともう一度尋ねた。 女は再び「ワタシよ、忘れた」と問いかけてきた。 昇はその口調に覚えがあった。 「シーちゃんなの」と聞いた。 女は「そう、覚えていてくれたのね。 ありがとう」と答えた。 昇は何か言おうとしたが喉がカラカラになり手に持っていたビールを一口あおって「元気だったか」と言った。 シーちゃんと言われた女は受話器の向こうで「ええ、何とか」と答えた。 昇が「どこからかけているの」と尋ねるとシーちゃんと言われた女は「近くよ。 昔、あなたがいつも電話をくれた 公衆電話のあった所から携帯でかけているの」と答えた。 昇はほんの2分にも満たない会話なのにとても長く感じた。 「すぐ行く、そのまま待っていて」と言うとその女は「ええ、待っているわ」と言った。 昇は腰に巻いたバスタオルを外し急いで着替えた。 シーちゃんと言われた女は昇が学生時代に教育実習生として出向いた高校に3年生で在籍していた吉村茂子であった。 その後銀行へ勤めが決まった茂子は昇と付き合うようになり、昇も教員として同じ町の中学校へ赴任が決まった。 昇はその頃には茂子を妻にと思うようになっていた。 お茶目な茂子は誰とでも付き合いが良かった。 行動的で歯に衣着せぬもの言いの茂子は学生時代は年配の教師から危険人物のように扱われる事もあったが 屈託のない笑顔は誰からも親近感を持たれていた。 そんな事を思い出しながら昇は公園へと急いだ。 5分とかからない所にその公園はあった。 茂子は公衆電話のあった場所で佇んでいた。 50歳前になった昇はその姿を見付けて自分の心臓が早鐘のように打っているのを自覚していた。 ビールを飲んでいるからだけではないと思った。 そば迄行って「元気だったか」と言うのがやっとだった。 茂子は黙って昇を見上げた。 その顔は心なしか青ざめて見えたが昇はそれを街灯のせいだと思った。 「どこでどうしていたの」と尋ねると茂子は目に一杯涙を溜めた。 そしてはらはらと涙をこぼした。 昇は「会えて良かった。もう会えないかと思っていた」とやっとの思いで言うと茂子は「よく来てくれたわ、嬉しい」と 言って昇の胸に顔をうずめた。 昇は「コーヒーでも飲みに行こうか」と誘うと茂子は首を横に振った。 「何かあったの、どうしたの」と尋ねても茂子はこらえたように声を殺してすすり上げるだけであった。 昇は「話してくれなきゃ分からないよ」と言ってみたが茂子はつぶやくように「何も聞かないで」と言うだけであった。 昇は「とにかく腰を降ろそう。 僕は風呂上りにビールを飲んだのでちょっと匂うかも知れないよ」と言った。 二人は公園のベンチに腰を降ろした。 茂子はさっきとは違い笑顔を向けて「昇さん、今年の祇園祭りに一緒に行かない」と誘った。 余りの唐突な話に「オイオイ、突然なんだよ」と答えながら心の中で行けるかも知れないな、と思っていた。 茂子は「ダメ」と甘えるような声を出した。 昇は「行けるかも知れない」と答えて「何曜日に当たるかな」と聞いた。 「宵宮が木曜日で曳き回しはが金曜日よ」と茂子は答えた。 昇は「木曜日と金曜日か。 夏休み前で無理だな」と言うと「宵宮だけでいいの。 夕方から出かけてその日の内に帰って くればいいのよ。縁日の夜店を見たいの。 それと町家の様子も見たいの。 とてもすばらしいそうよ」と言ってきかない。 昇は「それなら行けるかも知れない。 奈良からだから帰ってこれる」と言うと茂子は嬉しそうにほほえんだ。 昇は自動販売機でコーヒーを買おうと思ったが急いで家を出て来たため、財布を持たずに来た事に気がついた。 茂子は「私、何もいらない」と言った。 昇は「今、どこにいるの」と尋ねたが茂子は「マンションで一人暮らしよ」と答えただけでどこのマンションか言わなかった。 「再婚はしなかったの」と尋ねると「ウン、ずっとひとり」と茂子は答えた。 「そう、君がすぐ離婚して東京へ出てしまったという事だけ知らせてくれた人がいた。 その時僕の彼女のお腹の中には 子供ができていて君には連絡ができなかった」と言って昇はうなだれた。 「知っていたわ。 だから私はできるだけ遠くへ行きたかったの。 今は東大阪にいるわ」と茂子は言った。 「そう、近くまで戻って来ていたのだね」と昇は答えながら心が騒ぐのを覚えた。 茂子は「今でも日教組をやっているの」と尋ねた。 「やっているって言ったって、こんな時代だから昔のような勇ましさはなくなったさ」と昇は答えた。 答えながら、こんな時代になるのなら組合活動なんてあの時に辞めておけば良かったと思っていた。 茂子の父は警察官だった。 昇が茂子との交際を認めて欲しいと言った時、茂子の父は「アカに大事な娘は任せられない」とニベもなく言った。 昇は茂子を取るか活動仲間を取るか、いや、茂子を選ぶか、社会変革運動を選ぶか迫られたのであった。 昇が23歳の時であった。 昇は先輩に相談をしたがその先輩は「一時的な感情に流されているだけではないのか。 もっと社会の本質を見極めてからでも 結婚は遅くはない。君が彼女をどれだけ高められるかだよ。 それより彼女を早く僕達の戦列に入れる方が先決なんじゃないかな」と 言った。 昇はそれもそうだと思った。 そしてその事を茂子に告げると茂子は「私は父を裏切る事はできない。 私がアカになると父だけでなく、祖父も困るだろうし悲しむわ。 家族の絆を切って迄、愛を貫く勇気はないわ。それに・・・」と言って口ごもった。 昇は「それに、なあに」と聞くと茂子は「それに、そんな事、愛を利用した踏絵のようだわ」と答えたのである。 昇は悩んだ。 茂子の為に「裏切り者」「転向者」「女に骨抜きにされた日和見主義者」「プチブル」と言われる事への恐怖が頭をよぎった。 そんな昇に茂子は「あなたの言う革命って何なの。 私、よく分からない。 いつもヒステリックに誰かの悪口言っているだけにしか 聞こえない。それでいていつも自分は周りからどのように言われているのか気にしていて、口コミで情報流しているようで、その実、 事実より噂話ばかりで、あなたの仲間の事を思うと気が重くなるわ。 私の事だってそうでしょ。 警察官の娘というだけで何か悪者みたいな目で見る人だっているわ。 職場でだってそうよ。 化粧直しをしていると組合に入っている人から、吉村さんはブルジョワ趣味ネ、なんて皮肉交じりに言われるわ。 女性が小奇麗でいようと思うどこがいけないのかしら。 見た目でなく、中身を見ようとしない人達と私はやっていけない。 私があなたの仲間達に何をしたのかしら。 私が活動家になればそれでプロレタリアートになれるの」と言った。 昇はうなだれた。 突然耳元で「どうしたの」と茂子の声がした。 昇は我に返り「ああ、何年振りかな」と言った。 茂子は「何年振りでもいいじゃない」と答えた。 「そうだね。長い間会ってないようには思えないね」と答えて心の中ではかれこれ25年近くにもなるかな、と思った。 茂子は独りでいるせいか若く見えた。 透き通るような肌は街灯の青白い光を浴びてより一層白く見えた。 茂子は「それじゃ7月15日の夕方西大寺の2番ホームで待っているわ」と言ったので昇は「何時がいいの」と尋ねた。 「そうねえ、私は何時でもいいけれどあなたの都合もあるでしょ」と昇の都合を気遣った。 昇は「6時くらいはどう。 2番ホームの進行方向に向かって一番前くらいで」と言うと「そうね、それがいいわ。 じゃ忘れないでね」と言うと立ち上がり 「楽しみだわ」と言って右手を差し出した。 昇はその手を握り「僕も楽しみだよ」と言ったが茂子の手はヤケに冷たく感じられた。 「駅まで送ろうか」と言うと「ううん、いいの別れる時が辛いかも知れないから。その代り私が見えなくなる迄見ていて」と言った。 「いいよ」と答えながら昇は切ない気持ちになった。 茂子は後も見ずに去って行った。 [ニ章へ] ジャンル別一覧
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